花岡事件を歩く        フィールドワーク案内版
 中国殉難烈士慰霊之碑 J
死 者 の 名 を 刻 む 碑(いしぶみ)

 花岡の町を通りぬけて、大館市最北端の集落、繋沢方向へ進む途中、左側に十瀬野公園墓地と、大きく横書きされた門が見えてくる。門をくぐり抜け、公園内に入ってすぐの所に、大きな石碑が一つ建っている。これが、1963(昭和38)年11月24日に除幕された、中国殉難烈士慰霊之碑である。この石碑にこの地が選ばれた理由は、この土地が旧花矢町営の公園墓地であったからで、花岡事件と直接かかわりがあってのことではない。
 慰霊之碑が建立されることになった契機は、1960(昭和35)年、中山寮跡周辺の姥沢で作業中、中国人の2遺体が発見が発見された。それを、鉱山関係者が、信正寺裏の華人死没者追善供養塔横に埋め、そのままにしようとしたことから起こった。それを知った人々は、あまりにも非人道的措置、侵略戦争への無反省に怒り、花岡鉱山をはじめ、小坂鉱山、尾去沢鉱山の北鹿三山における、強制連行中国人の再調査に立ち上がることになる。この運動に団体としては、秋田県慰霊実行委員会、日中友好協会秋田県支部、秋田県民文化会議、在日朝鮮総聨合秋田県本部、日本共産党秋田県委員会、等々が参加してしている。
 その結果、花岡に於いては、1963(昭和38)年6月に行われた、中国人遺骨発掘の「一鍬運動」へと発展した。このような状況の中で、当時の山本常松花矢町長が、行政として、町の首長としてできることは何か、という立場から取り組み、当事者企業の鹿島のほか、同和にも交渉し、花矢町との三者で、この中国殉難烈士慰霊之碑建立となったのである。
 この碑の裏面には、鹿島組中山寮での殉難中国人419名、同和鉱山東亜寮での殉難中国人11名、すべての故人名が一人ひとり刻まれている。
 後日、私たち碑をまもる会の武田武雄会長が、山本町長を評して、「あの町長はおもしろい人だ。この慰霊碑を建てる目的の一つに、いまに、日中国交が回復して、中国人が日本へたくさんやってくるようになると、ここは観光名所になる、と言っていたよ」と苦笑されていたことが思い出される。
 大館市は、花矢町の中国殉難烈士慰霊事業を引き継ぎ、1968(昭和43)年以降、例年この碑の前で慰霊行事を行っている。

  中国殉難烈士慰霊之碑     裏側 殉難者の氏名が刻まれている
 
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