花岡線の終点、花岡駅の跡に立って見ても、今では、その痕跡を見つけることさえ困難である。場所を確認できる建物としては、火災にあって再建された白い瀟洒な旧花岡鉱業の事務所が、駅跡のすぐ東側に建っているだけである。
しかし、かってこの付近一帯は、花岡鉱山の歴史の中でも、最も重要なところとして、1916(大正5)年から、1973(昭和48)年の廃鉱まで、約半世紀にわたって鉱山繁栄の中心となった、堂屋敷鉱山地帯であった。
花岡事件当時も、ここは駅舎をはじめとする鉄道関連の諸施設、大規模な選鉱場や鉱山関連の諸工場、建設物が林立し盛んな賑わいをみせていたものであった。
今、駅跡に立って周囲を見回すとき、すぐ南側には堤沢鉱の露天掘跡にみどり色の水が溜まり、底無しの沼のような不気味な光景を呈し、西方一帯に広がっていた、堂屋敷鉱山の建物群は消え、アカシヤ林となってしまっている。駅から桜町に続いていた駅前商店街も今は無く、数件の民家が淋しく残っているだけである。
鹿島組花岡出張所に強制連行されて来た中国人たちは、中山寮から本郷の花岡川改修工事現場まで、冬も夏も毎日一列に連なり、朝早くここを通り抜け、西前田北前田住宅街の裏道を通り、七ツ館から信正寺門前前に至る道路をかよわされていた。作業が終わってからはまた、疲れきった身体で、暗くなったこの道をはうようにして、山奥の中山寮へと帰っていったのである。その時、中国人たちの目に、この花岡の鉱山風景はどう映ったのだろうか、彼等は心の中に何を思いながら歩いていたのだろうか。
今、かっての盛(サカ)りヤマ堂屋敷抗の跡に立って、何も残っていないその風景の中に、中国人たちが見たであろう当時の鉱山の光景を想像し、彼等が心に何を思ってそれを眺めたのかを、自分の心に重ねて思いめぐらすことが、大切なことのように思われる。
戦争の悲惨さを忘れかけ、侵略戦争への責任が軽視され出し、再び「正義」の戦争は必要である、という主張さえあらわれはじめた、近年の日本の状況の中では、花岡事件の現地を巡ることは、平和の原点を巡ることとして、今こそ求められているような気がしてならない。
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