敗戦後、米占領軍立会いのもと、鹿島組が発掘した中山寮の殉難中国人の遺骨は、400余の小箱に移され、11月鹿島組の手によって、信正寺本堂に運び込まれた。それ以前にも、中山寮犠牲者の霊を弔ったことのあつた、信正寺先代蔦谷達道師に鹿島組関係者が頼みこんでのことであった。
「人間は仏の前では平等であり、死者の霊には国境は無い」、という信念の人であった蔦谷師は、その後4年間、狭い本堂いっぱいに置かれた中国人の遺骨を、毎日心をこめて供養し続けたのである。
老朽化していた、狭い本堂いっぱいに、遺骨が置かれていたのでは、葬儀など仏事をおこなう上で支障があり、檀家の苦情が高まるのは当然のことであった。信正寺としては、中国人の納骨堂を建て、中国人の遺骨をもっとていねいに弔うよう、鹿島組に対し、再三の要請をしていたのであったが、応じようとはしなかった。
ところが、1949(昭和24)年11月、地域に於ける運動の高まりや、中華人民共和国の成立による、国際的非難のおこるのを恐れた鹿島組は、要求していた納骨堂とはまったく違った、遺骨を隠蔽するために造ったとしか思われないような、コンクリートの穴をつくり、その上をセメントで蓋をしてしまったのである。それが今も信正寺の裏に残る、華人死没者追善供養塔である。
その後、遺骨は、1953(昭和28)年3月、民間人で組織された、中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会の手によって、コンクリートの中から出され、新しい木箱に移されて、東京へ捧持され、浅草本願寺に於て、慰霊大法要が行われている。祖国に還ったのは、同年7月のことであった。
修学旅行でこの場を訪れた、仙台尚絅女学院中学3年生のひとりは、「私が一番印象に残っているのが、中国人のお墓です。このお墓は、石でできているのではなく、コンクリートでできていて、中国人を差別しているのが、すぐ分かりました。私はそれを見て悲しくなりました」と、感想文に書いている。
今後、どのようにこの供養塔を保存したらよいのか、一つの課題として残されていたが、2001年6月鹿島建設の手によって改修されたのが、現在の中国人殉難者供養塔の姿である。
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