花岡事件を歩く        フィールドワーク案内版
 共 楽 館 広 場 E
悲 惨 の 舞 台

 共楽館という建物は、小坂鉱山で康楽館が果たしていた役割と同じように、鉱山従業員のための、娯楽、集会施設として、1941(昭和16)年1月に建築された木造一部二階建ての、本格的映写設備を持った立派な建物であった。
 繁華街桜町と鉱山病院(現久留島公園)に挟まれた、花岡駅前の一等地にあって、横には付属して行事ができるような広場を備えていた。現在の花岡体育館の位置に共楽館が建ち、弓道場から空き地一帯が、共楽館広場と重なる。
 共楽館跡とその広場が、花岡事件の重要な史跡の一つとなっっているのはなぜだろうか。それは、1945(昭和24)年6月30日深夜、中山寮を蜂起し脱走した中国人たちが、獅子ヶ森を中心に大館市周辺で逮捕された後、7月1日、2日、3日の炎天下、二人ずつ背中合わせに結ばれて、一食も与えられずに放置され、多くの死者を出した場所が、この広場であったからである。その間、中国人たちは順々に共楽館の中に連れ込まれ、首謀者探しの残虐な拷問に晒されていた。
 戦後すぐの11月、中山寮の中国人を診察し、その結果、花岡事件の存在を最も早く世に知らせることとなった論文『ひとつの事実』(1946年5月)の著者、高橋實医師の報告によると、鹿島組の資料では、7月中の中国人死者100名の「死因」が次のように記録されていた。胸部疾患4、下痢疾患54、浮腫疾患6、心臓疾患3、赤痢18、敗血症11、外傷死1、縊死1、老衰1。この「死因」について高橋医師は、「蜂起のとき大量の死者と疲労困ばい者を出したことと、花岡事件そのものの調査をさらに徹底させることと結びつけて推定」すべきであると述べている。
 花岡事件を象徴する史跡の一つとして、地域の人々や訪れた多くの人々に、実物にふれる感動と、侵略戦争への反省を訴えつづけてきた共楽館も、1978(昭和53)年7月、碑をまもる会や心ある多くの市民、民主団体、労働組合、歴史研究者等の解体反対、保存運動の盛り上がる中、同和鉱業と大館市当局の強引な力によって、無残にも解体され、その姿を消されてしまった。

共楽館とその広場(1959年 栗盛繁氏撮す) 共楽館跡に建つ市立体育館
 
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