花岡事件を歩く        フィールドワーク案内版

花岡事件とは
 太平洋戦争中日本の労働力不足補給のため中国から強制連行された中国人は約4万人に達する。そのうち同和鉱業花岡の下請け鹿島組に配されたのは986名でうち7名は輸送中に死亡している。この人々は姥沢の中山寮に入れられ酷しい監視の下に苛酷な労働と劣悪な生活条件のため続々と死者が出た。1945年6月30日夜、生き残った全員約800名が人間の尊厳を守り日本軍国主義に一矢を報いようと一斉蜂起し獅子ヶ森に拠った。日本の憲兵・警察・在郷軍人会・警防団等に包囲され激しい戦闘の後殆んど全員捕らえられ共楽館の庭に繋がれ炎天の下三日三晩食も水も与えられず拷問取調べを受け次々と倒れた。7月の死者100名と記されているがその悲惨さは言語に絶するものがあった。・・・・
                        共楽館跡碑々文より

 小坂鉄道大館駅 @
花 岡 鉱 山 へ の 玄 関

 1944(昭和19)年8月8日の昼頃、よれよれの作業着を身にまとった弱々しい男の集団が、歩くのもやっとといった、疲れ切った様子で、国鉄大館駅の貨物口を出て、小坂鉄道大館駅に向かって移動している異様な光景を駅前にいた人々は目にした。現在、JR奥羽本線大館駅と、小坂線旧大館駅を結ぶ道路の西側は、自転車置場となっており、その横は、日本通運の倉庫となっているが、当時は、川連商店の回収中古金属・鉄屑資材の置場が広がっていて、そこには、県内各地から軍需徴収された、銅像や梵鐘などが山積されていた。
 100mぐらいのこの道を、どうにか歩き、小坂鉄道花岡線に乗り換えた人々こそ、花岡事件の犠牲となった当事者たち、花岡鉱山鹿島組へ強制連行されて来た、中国人の第一陣294名であった。
翌年5月5日第二陣587名、さらに6月4日第三陣98名と、花岡鉱山へ連行されて来た中国人は、すべてこの道を歩き、奥羽本線から花岡線に乗り換えさせられている。
 それには、理由があった。1951(昭和26)年11月に、花岡線の軌間を奥羽本線並みに拡大する前は、レールの幅に違いがあって、列車を直接乗り入れることができず、貨物もすべて積み替えをする必要があったからである。したがって、下関から有蓋貨車に密閉状態で詰め込まれて4日後、中国人たちが初めて目にした日本の風景は、この大館駅であった。その約1年後、花岡での生存者500余人が、祖国中国に帰るとき、最後に目にした大館の光景も、やはりこの場所であった。
 1953(昭和28)年3月、花岡で殉難した中国人の遺骨400余箱、1964(昭和39)年11月、12箱の遺骨が、人々の胸に抱かれて祖国へ還るときも、やはりこの道を通って行った。
 大館から花岡への玄関として、重要な役目を果たした思いで多い花岡線も1985(昭和60)年3月、1915(大正4)年の創業から数えて70年目にしてその姿を消してしまった。
 残っていた旧駅舎も、2000年6月に解体され、貴重な歴史の物証がまた一つ消えた。

 JR大館駅 小坂鉄道旧駅舎
 花岡事件を歩く、フィルドワーク案内版は、花岡の地・日中不再戦友好碑をまもる会が、1995年に作成したガイドブック「花岡事件を歩く」から転載したものです。写真は、一部変更して掲載しております。
10 11 12