大館駅から、旧国道7号線を釈迦内方向に進み、板子石と日景町の境で左折すると、花岡への産業道路と、廃線となった花岡線跡が、北に向かってまっすぐに並行して走る平坦部に出る。そこから前方の小高い丘の上に見える大きな建物が、花岡鉱山最後のヤマ、松峰鉱山の選鉱場である。1963(昭和38)年鉱床が発見され、花岡最後の有力鉱山として期待されたこの鉱山も、1994年3月29日ついに閉山してしまった。
花岡へ向かって左側、西松峰集落の約百戸の住家は、もともと道路の東側にあったのであり、花岡と釈迦内を結ぶ唯一の道路がその中央を通っていた。1945(昭和20)年6月30日の深夜、数百名の中国人が中山寮から獅子ヶ森へ向かって通り抜けたのも、この道であった。暗闇の中を、無言で足早に通り去る大集団の足音に、何事が起こったのかと村人は、驚きおののいたのであった。
松峰鉱床の採掘がすすんだ1968(昭和43)年、地底の鉱床を掘り出した当然の結果として松峰地区全体の地盤沈下が始まり、ついに1976年、現在地へ集団移転をよぎなくされたのであった。しかし、この場所も沈下の影響を受けているのか、家屋の土台が安定せず、鉱山企業への再補償を求めて運動が続けられている。
この松峰地区に立って四方を見回すとき、北方に花岡鉱山街、北西には裏側に中山寮のあった大山を望み、南西には三菱松木鉱山の立抗跡、南東には日鉱釈迦内鉱山立抗跡と、中国人が立てこもった獅子ヶ森等々を、一望に見通すことができる貴重な地点となっている。
その意味でここは、花岡鉱山と花岡事件の、地理的関係を知る上では、非常に便利な位置ということができる。
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