花岡事件を歩く        フィールドワーク案内版
 日中不再戦友好碑 D
日 中 友 好 の 誓 い

 同和クリーンテックス工場が産業廃棄物を燃やす、煙突からの白煙を背に、滝の沢第二ダムの大堤防の中央に立って、対岸を望んだとき、大山の真下が中山寮跡であった。そのすぐ左側、ダムの東隅に、こんもりとした丘が半島状にダムに突き出している。その丘の上に日中不再戦友好碑は建っている。
 この碑は、1963(昭和38)年、中山寮がダムの底に沈められるときの「一鍬運動」に参加した人々が、このままではこの地に中山寮があったことも、中国人たちの遺骨がうずめられていたことも、いや、花岡事件そのものの存在すら、ここにダムを造ろうとした者たちの意図の通り、跡形も無く抹殺されてしまうことになる。この地に決して消すことのできない石碑を建て、日本の中国侵略への責任と反省をこめて、日中不再戦・日中友好の誓いにしようという思いが実り、1966(昭和41)年に建立されたものであった。
 碑建立運動の推進母体は、日中友好協会大館北秋支部であった。当時の会長武田武雄、理事長佐谷陽吉の両氏ともすでに故人となられたが、その精神は、今も、花岡の地日中不再戦友好碑をまもる会の運動へと発展し、継承されつづけている。
 碑の裏面には、武田会長の文章で「日本中国両国心ある人々の援助の下にここに日中不再戦友好碑を建立する。脚下鉱泥青く湛えるダムの底は1944年、45年に日本軍国主により不法に連行されて来た中国人993名の住まれた中山寮の跡であり言語に絶する虐待に倒れた烈士と1945年6月30日人間と労働の尊厳を守るため一斉蜂起して日本帝国主義に反抗し遂に壮烈な最後を遂げられた殉難烈士と合わせて418名の遺骸の埋められた跡である。〜略」(数字については、その後の研究で訂正)と、この地の持つ歴史的意義を明確に刻んでいる。碑の文字を書いているのは、当時の吉成大館市教育長である。
 碑建立の実行委員会に参加された方々は、大館市、県内外から約300名にのぼり、募金に協力された方々は、地元花岡を最大に約3300名、募金総額752000円となっている。除幕式は、1966(昭和41)年5月22日、現地で盛大におこなわれた。 

   
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