花岡事件を歩く        フィールドワーク案内版
 共 楽 館 跡 碑 ⑦
歴 史 の 教 訓 に 学 ぶ

 共楽館解体直後、この地に共楽館があり、ここが花岡事件にとってどんな意味を持つところかを明記したモニュメントを、設置すべきであるという要望が、市民の間から沸きあがった。それに対し市長は、「犠牲となった中国人を慰霊する意味の、女性ブロンズ像を建立したい」という意向を示してきた。しかし、女性像だけでは、ここが共楽館であったことの説明にはならない。花岡事件と共楽館跡地との関係を明確に説明する文章を、この地に残すことは絶対に必要である、という、碑をまもる会等の要望が受け入れられ、ブロンズ像のほかに、共楽館跡碑も一緒に建立するということが、市議会で承認されることとなった。
 その結果、市長から碑文の起草を依頼されたのは、当然のこととして、花岡事件の慰霊、継承運動に取りくんできた民間市民団体の、日中不再戦友好碑をまもる会にであった。その碑文原案に対して、市側担当の市教育委員会との間で、幾つかの問題を乗り越え、1980(昭和55)年6月、市の主催による除幕式が行われている。


共楽館跡碑々文

 太平洋戦争中日本の労働力補給のため中国から強制連行された中国人は約4万名に達する。そのうち同和鉱業花岡の下請け鹿島組に配されたのは968名でうち7名は輸送途中に死亡している。この人々は姥沢の中山寮に入れられ酷しい監視の下に苛酷な労働と劣悪な生活条件のため続々と死者が出た。1945年6月30日夜、生き残った全員約800名が人間の尊厳を守り日本軍国主義に一矢報いようと一斉蜂起し獅子ヶ森に拠った。日本の憲兵・警察・在郷軍人警防団等に包囲され激しい戦闘の後殆ど全員捕らえられ共楽館のこの庭に繋がれ炎天下の三日三晩食も水も与えられず拷問取り調べを受け次々と倒れた。7月の死者100名と記されているがその悲惨さは言語に絶するものがあった。今日日中両国の友好平和条約が結ばれたがわれわれはかってのこの事実を忘れず日中両民族不再戦友好の誓いを新たにしなければならない。

         1980年3月    武田武雄 撰
                     乾  須美 書

 共楽館解体(1978年7月 新川写真館)                   共楽館址碑
 
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