花岡事件を歩く        フィールドワーク案内版
 七ツ館坑跡と七ツ館弔魂碑 G
花 岡 事 件 の 発 端

 大館市史第三巻下によると、同和鉱業『70年の回顧』には、七ツ館坑落盤事故を次にように記しているという。「(昭和19年)5月29日、突如として七ツ館坑が坑内伏流水の異常出水のために崩落し、奔出地下水は泥流水となってたちまちポンプ座を侵し、連絡坑道に侵入して堂屋敷七番坑以下を水没せしめるという不測の災害が発生、崩落箇所で22名の尊い殉職者を出した。
 七ツ館鉱床は、旧花岡川の真下にあったため、落盤穴から花岡川の水が直接坑内へ流出するのを恐れた会社幹部は朝鮮人11名、日本人11名、計22名の労働者の生存を確認していながら、落盤口を密閉し、坑内から出ることのできない状態にしてしまったのである。これが七ツ館事件であった。
 現在、信正寺墓地内の南端に建つ七ツ館弔魂碑は、もともと事故現場にあったもので、現在地からも見通せる、南方桜町寄り2〜300mのところに建っていた。
それを、1968(昭和43)年、落盤によって掘り残されていた鉱石を、再度露天掘(オープンコラム方式)により掘り出すことになった際に、障害になるという理由で、お寺に頼み込んで現在地に移転したものである。
 今、七ツ館坑跡は、平に整地され、一部は更地と地元企業の資材置場、その他は、四阿(あずまや)も置かれ遊園地風に造成された広場となって、何事もなかったような静かな風景である。しかし、この落盤事件が原因で、花岡川の付け替え工事が始まり、その工事を請負った鹿島組花岡出張所へ、中国人たちが強制連行されて来たのであったことを考えるとき、この七ツ館坑跡は花岡事件発端の地として忘れてはならないところである。
 七ツ館事件を題材に、長編小説『地底の人々』を書いた作家松田解子氏は、「この七ツ館坑陥没こそ、やがて起こった花岡事件の生みの親だった」と、述べている。七ツ館弔魂碑の裏面に記された殉難者、日本人11名、朝鮮人11名の名前を見るとき、花岡事件での中国人犠牲者と合わせて考えて、この三国の人民は、共に、日本軍国主義の犠牲者であったことに気がつくのである。


                           七ツ館坑跡から大山方面を望む
   七ツ館弔魂碑    裏側 殉難者の氏名が刻まれている
 
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