⑪ よく年、二回目(1945年4月 589人)、三回目(5月 98人)に連れてこられたなかまたちも、毎日毎日苦しい生活が続けられました。
田植えがはじまるころ、中国人の働いている花岡の上を、キーンと音をたててB29が飛んできました。
「ワーッ!!」
「戦争も、もう終わりだぞ!」
戦争がまけてくれば、まけてくるほど、気ちがいのように働かせ、そのためになかまたちがばたばたたおれていきました。
「このままだまっていたんでは、われわれは、一人も本国へ帰ることができないかもしれん」
「何のために歯をくいしばって、生きぬいてきたのだ!」
中国人たちは、毎晩帰ってくると何ごとか相談しました。
それから、
「わたしたちを人間なみにあつかってくれ」
と、鹿島組の人たちと交渉しましたが、その主だった人たちはとらえられ、どこかへつれていかれました。
そこで、からだのじょうぶな、あくまでたたかいぬく固い決意をもったものたちを
えらんで主力部隊をつくり、なけなしの食料をあつめてやりました。