中国人強制連行の概要

 1942年11月27日東条内閣は、閣議において「華人労務者内地移入ニ関スル件」を決定し、1944年2月28日同内閣の次官会議は「華人労務者内地移入ノ促進ニ関スル件」を決定した。
 この閣議決定は中国人強制連行事件の直接の原因であった。
 これら一連の決定と方針によって、中国の河北、河南、山東、山西など十数省にまたがって、一般住民ならびに軍中俘虜を捕らえ、日本国内に連行した。それは日本侵略軍のいわゆる「労工狩り作戦」、あるいはまた華北占領地域における日本政府の出先機関ならびにかいらい機関による「割当行政提出」などで拉致したものである。
 捕らえられた人々は現地捕虜収容所に入れられたが、その収容所は「死の家」であった。
 その際捕らえられ殺された人々は膨大な数にのぼるが、その人員数や人名を明らかにする資料はいまだ見出していない。
 この収容所から日本国内に向けて連行した期間は、1943年4月から1945年5月にわたっており、人員は少なくとも169集団41762人である。
 このうち乗船までの間に、2823名が減じた。これらの減員についていえば、減員理由説明のある258人のうち死亡は24人である。
 乗船連行した中国人は38939人で、乗船後船内における死亡は584人、上陸後事業場到着までのあいだの死亡は230人、行方不明は8人である。こうして事業場に到着したものは、38117人。これらの人々を日本国内一道一都二府二十七県にまたがる鉱業、荷役業、軍事土建など、135の事業所に配置し、残虐な管理と劣悪な生活条件のなかで酷使した。
 そうして、事業場において、5999人を死に至らしめた。その後日本の敗戦による中国人集団送還の開始までに10人を、集団送還後に9人を死に至らしめた。
 そのはかに事業場において11人を死にいたらしめたものと判断される。
 また、事業場において不具廢疾になったものは少なくとも467人であり、そのうち失明者は296人である。
 これとは別に、労役期間途中で、中国東北部における労役に転じさせたものは1169人である。
 1945年8月15日のポツダム宣言受諾と、9月2日の降服文書調印に基づいて、日本政府は1945年10月9日より12月11日までのあいだに、生存者30737人を集団送還した。
 残留したのは193人で、そのうち所在不明人員は99人、敗戦前よりの行方不明29人、送還開始以後の行方不明6人である。残留者の統計は1946年3月1日の時点である。
 なお送還船中の死亡は6人であり、従って送還上陸した人員は、30737人より少なくなる。
 以上を要約すれば、連行者は少なくとも、41762人、死亡は、6872人、敗戦前よりの行方不明は37人であり、このうち現在にいたるも行方不明は30人である。
 中国人が中国の港を出た時から、日本の港を出るまでの期間は、平均13・3ヶ月、死亡率は17・6パーセントである。

            
(水上 勉〔著〕   釈迦内柩唄より)