花岡事件のあらまし
 花岡は、秋田県北部の鉱山町です。明治の初めころから金・銀・銅などの採掘がおこなわれ、大正になってから、おなじ秋田県小坂・尾去沢鉱山と共に大きく発展した。
 
 太平洋戦争が始まってから、鉱山の乱掘がひどくなり、北鹿三山(尾去沢・小坂・花岡)では、徴用者を強制動員し、農民をかなり集め就労させた。
 しかし、太平洋戦争が激しくなるにつれて労働力がいっそう足りなくなりました。これを日本人や朝鮮人だけで補うことは、とうてい不可能であった。そこで、この労働力不足を解決するために、日本政府は中国人の強制連行を考え、1942年11月、「華人労務者内地移入ニ関スル件」を閣議決定した。
 
 中国華北での日本軍の「労工狩り」「兎狩り」作戦は、1942年になるといっそう激しくなり働けそうな男をかたっぱしからとらえて、日本の鉱山、港湾荷役、軍事基地などで使うために「内地」へ強制連行した。日本軍はウサギでも狩るように部落を包囲して、中国人を捕らえた。
 こうして捕えられた中国人は日本全国の135事業所に38,935人、当時、花岡鉱業所の鉱山採掘の一部を請け負っていた鹿島組花岡出張所には1994(昭和19)年から3次にわたって986人が連行された。中国人労働者は、花岡に連れてこられたとき、極度の栄養失調と疲労で衰弱しきっていて7人が途中で死亡している。
 
 当時、花岡鉱山には銅の大増産命令が下されており、1944年5月29日には七ツ館坑の上を流れる花岡川が陥没し、日本人11人、朝鮮人11人が生き埋めになる事件(七ツ館事件)が起きた。連行された中国人は、この年の10月から始められ、花岡川の水路変更工事に従事させられた。
 
 中国人の収容所「中山寮」には窓らしい窓もなく、敷いたむしろは腐って真っ黒になり、暗い部屋の中は臭気がたちこめていた。食べ物は一日に饅頭1個しかあたえられなかった。
 内務省は鹿島組に「濡れたタオルの水が一滴もなくなる迄もしぼる方針を取れ」。華人の性格には表裏があり裏に陰謀政策が秘められた日本人に想像の出来難い点がある。と指示をし、鹿島組は、これを実行した。粗末な食事、過酷な労働、虐待などで1945年6月までに137人の死者を出した。
 
 1945年6月30日(7月1日説もある)夜、人間の尊厳を守るために死を賭して一斉蜂起し、収容所内の補導員4人と自分たちのなかにいたスパイ1人を殺し、食糧、スコップ、ツルハシ、毛布などをうばい中山寮を脱出、獅子ヶ森山頂にたてこもった。
 連絡を受けた憲兵、警察、在郷軍人会、消防団等によって全員が捕らえられ、炎天下の共楽館前広場で拷問を受け、次々と倒れ7月の死亡者は100人となった。

 7月14日、蜂起の指導者である耿諄ほか13名が秋田刑務所へ収監され、12人が起訴された。隊長の耿諄は無期懲役、11人は、懲役18年などの判決が出ます。
 しかし、敗戦後この人たちは、横浜軍事裁判の証人となります。

 
鹿島組の強制労働、虐待は8月15日後も続き、8月から10月までの3カ月間で168人が死亡しました。1944年7月から1946年3月29日までの間に419人が死亡した。

 1948年3月の横浜軍事裁判で鹿島組4人、警察関係者2人に有罪の判決が出ます。中国人に対する虐待行為を裁き、関係者が有罪となるが、花岡事件の責任を現場関係者のみに限定し、政府・事業場上層部の責任を不問にし、真の責任者に対してふれることなく、連行事件そのものは裁判の対象になっていなかった。