⑥1944(昭和19)年5月29日、七ツ館坑道が坑内伏流水の異常出水ため崩落し、日本人11名、朝鮮人11名の生存を確認していながら、七ツ館坑から堂屋敷抗への泥水の墳出が激しく、堂屋敷鉱も危険な状態になったので、鉱山監督局と大館警察署長との話し合いで、遭難者は殉職として6月16日、坑内救出作業を中止し、落盤口を密閉した。これが七ツ館事件である。
それ以降、陥没地帯の埋め立てに重点を置き、坑内地盤埋め立て作業完了と同時に、引揚げ作業のためボーリングによる調査等を行う。
1954(昭和29)年12月時点では、翌年5月頃から遺体の引揚げが出来るのではないかと思われる状態となった。
しかし、その後、遺体の引き揚げ作業はなく、1968(昭和43)年、落盤によって堀残されていた鉱石を、再度露天掘り(オープンコラム方式)により掘り出すことになり、その際にも引揚げ作業は行われなかった。したがって、遺体は坑道に埋もれたままなのか、露天掘り作業で掘り出され、何処かに運ばれたのかは不明である。
⑦信正寺前には、中国人たちの血と労苦と、命を犠牲にしてできた花岡川が流れている。
同和鉱業は、1944年10月から花岡川の水路変更工事をはじめます。この工事を請け負うことになった鹿島組は、同年8月8日に第一次強制動員され姥沢の滝ノ沢第二ダム建設に従事させられていた中国人294人がこの工事にあてられるれる。
1945年5月5日、第二次587人、6月4日に第三次98人連行され、合計979人となる。
花岡川の改修工事は、町の真ん中で白昼に約1キロメートルにわたって行われていた。その労働の厳しさ、日本人補導員たちにによる虐待の凄惨な情景は、多くの町民に目撃されている。
夏はけっこう暑く、冬は雪の厳しい寒さの中で働かされ、仲間が次々と亡くなり、家族と会える喜びや、明日への希望もない絶望的な異国での毎日であった。
⑧花岡の町を通りぬけ、大館市最北端の集落、繋沢方向へ進むと左側に十瀬野墓地公園がある。公園内に入ってすぐの右側に中国人殉難烈士慰霊之碑が建っている。1963(昭和38)年11月24日に除幕された。この石碑が建てられたのは、ここが旧花矢町の公園墓地だったからで、花岡事件との直接のかかわりはない。
1960年、中山寮近くの姥沢で中国人2人の遺骨が発見された。鉱山関係者はそれを信正寺裏の華人死没者追善供養塔の横に埋め、そのままにしようとした。それを知った人たちが、その非人道的なやり方、侵略戦争の反省のなさに憤り、花岡鉱山、小坂鉱山、尾去沢鉱山の3鉱山で、中国人労働者の遺骨再調査をはじめる。
花岡での調査活動は、1963年6月に行われ、中国人犠牲者の遺骨発掘「一鍬運動」へと発展した。このような状況のなか、当時の山本花矢町長が当事者企業である鹿島建設、同和鉱業と交渉して、花矢町、鹿島建設、同和鉱業、そして、遺骨発掘にかわっていた秋田県慰霊委員会の四者で除幕式が行われた。
この碑の裏面には、鹿島組中山寮での殉難者419人と同和鉱業東亜寮での殉難者10人、すべての故人名が亡くなった順に刻まれている。
この日のフィールドワークは8カ所でした。