6月14日、秋田県湯沢市、雄勝地域の国賠同盟(支部長 沼倉貞夫)一行9名が、「花岡事件」のフィールドワークに訪れる。
コースは、①松峰地域から始め、ここは、鉱石の採掘で地盤沈下し、集団移転をした集落です。この場所からは、黒鉱ブーム時代の大館市の3鉱山、同和松峰(1994年閉山)、日鉱釈迦内鉱山(1987年閉山)、三菱松木鉱山(1978年閉山)を見渡すことができる。
②旧滝ノ沢第二ダム(現在は埋め立てされ水はない)の堤防を「友好碑」の方向に進むと、右に聳える大山の裾野に強制連行された中国人の宿舎、中山寮跡が埋もれている。左には、中国人が立てこもって鎮圧隊に抵抗した、獅子ヶ森山(224.9m)が遠くに望む。
③堤防を進むと間もなく日中不再戦友好碑が建つ友好碑の丘。「友好碑」建立の経緯は、1963(昭和38)年から始まった中国人犠牲者の遺骨発掘に参加した多くの人たちが、遺骨発掘が終わり、中山寮がダムの底に沈むと、ここで起こったことが、すべて忘れられてしまうのではないか、形になるものを残そうと1965年に「碑建立」の実行委員会が結成され、地元花岡をはじめ全国に募金を訴え、75万円余りが集まる。 1966年5月22日に除幕式が行われた。
共楽館址碑
日中不再戦友好碑
④共楽館は花岡鉱山従業員の娯楽、集会施設として、1941(昭和16)年1月に建築された木造一部三階建の、本格的映写設備を持った建物であった。
共楽館とその広場は、1945年6月30日(7月1日説もある)の深夜に蜂起し脱出したのちに
獅子ヶ森や大館周辺で捕らえられた中国人が、炎天下に2人ずつ背中合わせに縛られ、一食も与えられず放置され、その間、順々に共楽館内に連れ込まれ首謀者探しの残虐な拷問にさらされた。
1978(昭和53)年3月10日、「共楽跡地に体育館」という新聞報道があり、〝日中不再戦友好碑をまもる会〟は、痛ましい事件を忘れないためにもその証として保存を訴えていた。しかし、7月5日早朝から、解体工事が始まる。7月30日、体育館の起工式が行われた。
その2年後、大館市は「まもる会」の粘り強い交渉で址碑の建立を約束、碑文の起草は『日中不再戦友好碑をまもる会』の武田武雄会長が起草し、1980年6月7日に除幕式が行われた。