日中不再戦友好碑
 滝ノ沢第二鉱滓ダム(現在は埋めたてられその面影はない)の堤防に立ち、旧ダム方向を見ると、大山(375m)がそびえたち、その山裾の地下約30mに、鹿島組が連行
した中国人労働者の収容者であった中山寮が埋もれている。その左方向に小高い丘
があり、そこに中山寮を見下ろすように「日中不再戦友好碑」が建っている。木々が生茂り堤防からは見ることが出来ない。
 中山寮での中国人たちの生活がいかに悲惨なものであったかは、強制連行された中国人986人中、死者419人、死亡率42.5%という数字にはっきりと示されている。
 1945(昭和20)年11月、鹿島組は米占領軍立会いのもと、中山寮裏手の通称鉢巻山・大穴から中国人の遺体・遺骨を発掘し焼骨後、400余の木箱に入れて信正寺に搬
入する。この遺骨は、民主団体によって50年9月に大穴から発掘された8箱の遺骨と共に、53年7月、中国に送還される(第一次中国人俘虜殉難者遺骨送還)。
 さらに1960(昭和35)年ダム工事中に鉢巻山から中国人の2遺体が発見され、63年
6月、工事を中断して遺体・遺骨の発掘が行われた。中国人俘虜殉難者慰霊実行委
会は、地元の人々、市民、民主団体、労働団体等県内外各層に広く呼びかけて中国
人犠牲者の遺骨再発掘、収集するための「一鍬運動」を展開した。この時の遺骨は、
64年11月、武田武雄・鈴木義雄・蔦谷達元氏が地元代表で中国へ捧持している(第
九次中国人俘虜殉難者遺骨送還)。

 日中不再戦友好碑は、1963(昭和38)年、「一鍬運動」に参加した人々がこのままではダムの底に沈められ、この地に中山寮があったこと、中国人たちの遺骨がこの地に埋められていたことも、花岡事件そのものの存在すら、ここにダムを造ろうとした者たちの意図通り、跡形も無く消されてしまうことになる。この地に石碑を建て、日本の中国侵略への責任と反省を込めて、日中不再戦・友好・平和の誓いにしようという思いが実って66年に建立された。
 碑建立運動の推進母体は、日中友好協会大館北秋支部で、65年4月に実行委員会
が結成され、代表に武田武雄(日中友好協会大館北秋支部会長)、実行委員に山本常松(花矢町長)、佐藤敬冶(大館市長)他127人、事務局長に蔦谷達元信正寺住職
が就任し、「碑建立についてのお願い」を発表し、広く募金を訴え、全国への募金行動、鉱山住宅への戸別訪問などが行われた。
 碑建立の実行委員会に参加された方々は、大館市、県内外から約300人に上り、募金に協力された方々は、地元花岡を最大に約3300人から総額75万円余が寄せられ完成した。碑の正面はダム底に沈む中山寮を見下ろし、中国人殉難者の祖国中国にむけられている。
 1966年5月22日に花岡姥沢の地で、建立実行委員会、慰霊実行委員会など30余の協力団体の代表130人が列席して除幕式が行われた。

 <碑文> 正面 「日中不再戦友好碑」        黒田寿男氏 筆
       側面  発展伝統友誼
            反対侵略戦争            郭 沫 若氏 筆
       裏面  日本中国心ある人々の下にここに日中不再戦友好碑を建立する
           脚下鉱泥青く湛えるダムの底は一九四四年四五年に日本軍国主
           義により不法に連行されて来た中国人九九三名の住まれた中山寮
           の跡であり言語に絶する虐待に倒れた烈士と一九四五年六月三
           〇日人間と労働と祖国の尊厳を守るため一斉蜂起して日本帝国主
           義に反抗し遂に壮烈な最後を遂げられた殉難烈士とあわせて四百
           十八名の遺骸の埋められた跡である。われわれは永遠にこの事実
           を銘記し石に刻して両国人民子々孫々に至るまでの不再戦友好の
           誓いとする。(数字については、その後の研究で訂正)
                                武田武雄氏 筆

 1967年6月30日、日中友好協会主催の中国人殉難烈士慰霊祭が信正寺で行ったあと、碑前で「日中不再戦の誓いの集い」を行う。
 1973年からは「花岡の地・日中不再戦友好碑をまもる会」の主催で慰霊祭と「日中不再戦・友好・平和の集い」として毎年行われている。