花岡事件は「アジア・太平洋戦争」末期、日本軍国主義者が引き起こした残虐、悲惨な事件で日本国内35企業・135事業所に38,935人の中国人を強制連行し、全国で6,830人が死亡したという事件の一つである。
花岡事件は、広義には、1944年8月8日から1946年鹿島組(現鹿島建設)花岡出張所に連行された中国人に起こった約20ヵ月間の全体をさします。狭義には、1945年6月30日(7月1日説もある)に起こった中国人の一斉蜂起にかかわる出来事である。
戦争が激しくなるにつれて労働力がいっそう足りなくなった。これを日本人や朝鮮人だけで補うことは、とうてい不可能であった。そこで、この労働力不足を解決するため、東条内閣は1942年11月27日、「華人労務者内地移入ニ関スル件」を閣議決定、中国人を連行して鉱山、土建、港湾など全国135事業所で過酷な労働を強いました。1944年2月28日の次官会議で、連行するにあたり「華北労工協会」(趙棋・理事長)傀儡政権と並んで、「現地日本軍」が加わることを明記した。連行されたのは、八路軍と国民党軍の俘虜のほか、主に日本軍が「労工狩り」「兎狩り」作戦で村を包囲して捕らえた一般人であった。
鹿島組花岡出張所には三次にわたって986人(輸送途中7人の死亡含む)が配属された。
当時、花岡鉱山には銅の大増産命令が下されており、1944年5月29日には七ツ館抗の上を流れる花岡川が陥没し、日本人11人、朝鮮人11人が生き埋めになる事件(七ツ館事件)が起きた。連行された中国人は、この年の10月から始められた花岡川の水路変更工事に投入された。
中国人の収容所「中山寮」には窓らしい窓もなく、敷いたムシロは腐って真っ黒になり、暗い部屋の中は臭気が立ち込めていた。食べ物は一日に饅頭1個しか与えられなかった。
内務省は鹿島に「濡れたタオルの水が一滴もなくなる迄も絞る方針を取れ」。華人の正確には表裏があり裏に陰謀術策が秘められ日本人に想像の出来難い点がある。と指示し、鹿島組は、これを実行した。粗末な食事、過酷な労働、虐待などで1945年6月までに137人の志望者を出した。
1945年6月30日((7月1日説もある)夜、人間の尊厳を守るために死を賭して一斉蜂起し、収容所内の補導員4人と自分たちの中にいたスパイ1人殺し、食料、スコップ、ツルハシ、毛布などを奪い、重傷で身動きでいない50人余りを残して中山寮を脱出、獅子ヶ森山の頂上にだどり着いた。憲兵、警察、在郷軍人会、消防団等によって全員が捕らえられ、炎天下の共楽館前広場と館内で拷問を受け、次々と倒れた。7月の志望者は100人にのぼった。この間、報道管制が敷かれ、憲兵隊は大館方面からの郵便物を開封し、ハサミを入れた。
7月14日、蜂起の指導者である耿諄ほか13名が秋田刑務所へ収容され、12人が起訴された。
鹿島組の強制労働、虐待は8月15日後も続き、8月から10月までの3カ月間で168人が死亡した。強制連行された1944年7月から1946年3月29日までの間に419人が死亡した。
1948(昭和22)年3月1日、横浜軍事裁判で鹿島組4人、警察関係2人に有罪の判決がでた。この判決は中国人を「規約による労務者」ではなく「俘虜」と認定し、戦争の法規「陸戦の法慣例に関する条約」「俘虜の待遇に関する条約」等に則って中国人に対する虐待行為を裁き、関係者を有罪にしたが、花岡事件の責任を現場関係者のみに限定し、政府
・事業場上層部の責任を不問に付し、真の責任者に対してふれることなく終
わる
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