花岡事件 フィールドワーク
 10月15日午後、市内の読書サークル一行8人が花岡事件のフィールドワークを行いました。「日中不再戦友好碑をまもる会」の案内サークルの3人が車の運転と案内。
 中山寮を脱出した中国人が立てこもって、捜索隊に投石で抵抗した獅子ヶ森(224・7㍍)の山頂を眺めながら、中国人が通ったとされる道をワゴン車2台で走る。小林多喜二の母セキさんの生誕地を見て、旧松峰地域では、車を止めて鉱山の採掘で地盤沈下した跡地をながめる。
 埋め立てられた滝の沢第二ダム(中山寮があった所)、日中不再戦友好碑、共楽館跡碑、花
岡川(現存する唯一の物証)、華人死没者追善供養塔・中国人殉難者供養塔、七ツ館弔魂碑、中国人殉難烈士慰霊之碑の五か所の碑を廻る。最後に、地盤沈下で集団移転をした、新松峰町内を流れる茶色に染まった川底を眺め、それぞれの思いを胸にいだく。
   日中不再戦友好碑
 日本の中国侵略への責任と反省を込めて、日中不再戦・日中友好の誓いにしようとという思いが実り、1966(昭和41)年に建立されたものである。
 碑建立の実行委員会に参加された方々は、大館市、県内外から約300名にのぼり、募金に協力された方々は、地元花岡を最大に約3300名、募金額752,000円となっいている。除幕式は、1966年5月22日、現地で行われた。
 碑の裏側には当時の会長であった武田武雄氏の、この地の持つ歴史的意義を明確な文章で刻まれている。側面には郭沫若(中国の文学者・歴史家)「発展傳統友誼」「反對侵略戦争」の文字が刻まれている。
  共楽館跡碑
 1945(昭和20)年6月30日深夜(7月1日説もある)深夜、中山寮で蜂起し脱走した中国人たちが、獅子ヶ森を中心に大館市周辺で逮捕された後、7月1日、2日、3日の炎天下、二人ずつ背中合わせに結ばれて、一食も与えられず放置され、多くの死者を出した場所が共楽館前広場であった。中国人たちは順々に共楽館の中に連れ込まれ、首謀者探しの残虐な拷問に晒された。
 1978(昭和53)年7月の解体後、ここが花岡事件にと
 ってどんな意味を持つところかを明記したモニュメントを設置すべきであるという市民の要望があがり、大館市と交渉をして共楽館碑を建立することになり、碑文は、日中不再戦友好碑をまもる会が依頼を受けた。その碑文の原案にたいしては、市側との間で、幾つかの問題を乗り越え、1980(昭和55)年6月、大館市主催による除幕式が行なわれた。
  花岡川
 花岡事件唯一の物証として、私たちが目にすることのできるものは、中国人たちの血と労苦と、命を犠牲にしての労働によって残された、花岡川だけである。1944(昭和19)年5月29日の七ツ館坑の崩落事故(旧花岡川)によって、水路変更工事がこの年の10月から始まり、第一次に連行され、鉱滓堆積建設工事に従事していた中国人は、花岡川の水路変更工事に投入され、その後、第二次、第三次と連行されて来た。
 花岡事件を知ろうと現地を訪れる人が、必ず足を運ぶ場所である。家族と会える喜びもなく、明日への希
望もなく、絶望的な異国での毎日、そのときの中国人の思いを、花岡川は、私たちに語ってくれている。
  中国人殉難者供養塔
 敗戦後、アメリカ占領軍立会いのもと、鹿島組が堀り出した中国人犠牲者の遺骨は、400余りの木箱に移され、信正寺本堂に運び込まれた。狭い本堂に遺骨を置かれていたのでは、葬儀などの仏事を行う上で支障があり、檀家からの苦情があって、信正寺では、中国人の納骨堂を建て、ていねいに弔うよう鹿島組に再三要請したが応じなかった。
 ところが、1949(昭和24)年11月、地域の運動の高ま

りや、中華人民共和国成立による、国際的非難をおそれた鹿島組は、遺骨を隠蔽するために造ったと思われる、コンクリートの穴を造り、その上をセメントで蓋をしてしまった。それが華人死没者追善供養塔(写真手前)である。
 その後遺骨は、1953(昭和28)年3月、中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会の手によってコンクリートの中から出され、新しい木箱に移され、浅草本願寺に於いて、慰霊大法要が行われた。祖国に帰ったのは、同年7月であった。
 現在の中国人殉難者供養塔(写真後方)は、2001年6月に鹿島組によって改装されたものである。

  七ツ館弔魂碑
 1944(昭和19)年5月29日、七ツ館坑が坑内伏流水のため崩落し、奔出地下水は泥流水となってポンプ座を侵し、連絡坑道に侵入した。
七ツ館鉱床は、旧花岡川の真下にあったため、落盤穴から花岡川の水が直接坑内へ流れ出すのを恐れた会社幹部は朝鮮人11名、日本人11名、計22名の労働者の生存を確認しながら、落盤口を密閉た。これが七ツ館事件である。
 碑は、1947(昭和22)年5月に会社によって事故現場に建てられた。しかし、1968(昭和43)年、落盤によって堀り残された鉱石を、再度露天掘りにより掘り出すことになり、障害となるという理由で、信正寺墓地内に
移転したものである。
 七ツ館坑道崩落事故によって、花岡川の水路変更工事が行われ、その作業に中国人労働者が従事させられたのである。
 七ツ館弔魂碑の裏面に記された殉難者、日本人11名、朝鮮人11名は、花岡事件での中国人犠牲者と合わせ考えると、この三国の人民は、共に、日本軍国主義の犠牲者であったことに気がつくのである。
  中国殉難烈士慰霊之碑
して、首長としての立場から、当事者企業の鹿島建設のほか、同和鉱業とも交渉し、花矢町の三者でこの中国人殉難烈士指令之碑の建立となった。1963(昭和38)年11月24日に除幕式が行なわれた。
 この碑の裏面には、鹿島組中山寮での殉難中国人419人、同和鉱業投東亜寮での殉難中国人10人の、全ての故人名が刻まれています。
 慰霊碑が建立さた契機は、1960(昭和35)年、中山寮跡周辺の姥沢で作業中、中国人の二遺体が発見された。それを、鉱山関係者が、信正寺裏の華人死没者追善供養塔横に埋め、そのままにしようとしたことから起こった。それを知った人々は、あまりにも非人道的措置、侵略戦争への無反省に怒り、花岡鉱山をはじめ、小坂鉱山、尾去沢鉱山の北鹿3山における、強制連行中国人の、再調査に立ち上がることになる。
 花岡に於いては、1963(昭和38)年6月に行われた、中国人遺骨発掘の「一鍬運動」へと発展した。このような状況の中で、当時の山本常松花矢町長が、行政と